日南の偉人達(一部紹介)


小村 寿太郎(こむら じゅたろう)(1855〜1911)
 飫肥の生んだ明治の偉大な外交官。数々の功績がありますが、日露講和条約(ポーツマス条約)締結が最も有名でしょう。
 1855年9月生まれで、1861年に藩校「振徳堂」に入学しました。安井息軒が先生としていた頃です。振徳堂を優秀な成績で卒業した14歳の寿太郎は、小倉処平につれられて長崎に留学し、15歳で飫肥藩の貢進生として大学南校に入学しました。17歳で明治天皇を前に講演を行っています。20歳でハーバード大学に入学し、帰国後大阪裁判所に勤めた後、外務省に入省しました。1901年46歳で外務大臣に就任し、1905年9月5日に日露講和条約をアメリカのニューハンプシャー州ポーツマス市で調印しました。
 日露戦争は戦局が泥沼化し、両国とも戦争を続けられなくなった所をアメリカの仲介で講和会議になったため、勝敗が決していない状況での講和会議開催という難しい局面でした。国民の期待に反して、政府関係者の先行きの見通しは暗いものでした。そのため、誰もが全権大使になる事を敬遠していました。しかし、寿太郎は愛国心からこの任を引き受けたのです。
 ポーツマス会議でのこんなエピソードがあります。ロシア側は会議中フランス語を使用していました。もちろん、日本側が誰もフランス語を習得していないからであろうという推測からでした。しかし、勉強熱心な寿太郎はフランス語を習得していたのです。もちろん、ポーツマス会議でフランス語が必要になるとは彼自身、その当時予想しえなかったことでしょう。常日頃から勉学に勤しんでいた寿太郎だからこそ成し得た奇蹟です。寿太郎は敵の戦略などを得て会議を有利に進めるため、最後までフランス語を使用しませんでした。会議の数日後、ロシア全権ウィッテがフランス語で挨拶した際、初めて通訳を介さずに、流暢なフランス語で話をし、ロシア側を驚かせたそうです。
 幼年期より、「誠」の精神を重んじ、貫き通した彼を誰もが尊敬していました。
 1911年56歳の時に勲功により爵位(侯爵)を授けられ、外務大臣を退任。宮崎に帰ってきた際、宮崎中学校(現・大宮高校)の生徒の前でこう話しています。「諸君らは誠であれ」。短いスピーチではありますが、彼の生き様を如実に表現した言葉です。その年の11月に惜しまれながら亡くなりました。
 日南市では、1985年に日露講和条約80周年を記念し、ポーツマス市と姉妹都市を結びました。
 その他の功績としては、日英同盟締結、関税自主権の回復等があります。
 日南市飫肥には小村記念館があります。

▼「ポーツマス講和条約の日」制定
 アメリカ・ニューハンプシャー州は、ポーツマス市や周辺を舞台に日露戦争を終結させたポーツマス条約(1905年)が調印された9月5日を同州の記念日に制定する条例が2010年8月17日、ジョン・リンチ州知事が条例に署名して成立した。
(参考文献 2010年8月15日及び19日付 宮崎日日新聞)

小倉 処平(おぐら しょへい)(1846〜1877)
 もとは長倉家で、小倉家の養子となります。自由主義者でイギリス留学経験あります。
 振徳堂時代の寿太郎に会い、彼の将来性に着目。長崎へ英語留学を薦め、自身も引率者として長崎へ。しかし、予定されていた講師が大学南校(現、東京大学)に登用されたと知り、東京へ。しかし、当時の大学南校は大藩の子弟のみに開かれた門であったため、寿太郎達は門前払いされてしまいます。この現状を憂いた小倉処平は成績優秀な若い世代にも開かれたものにしなければならないという持論を展開し政府に働きかけ、ついに大藩からは3名、中藩から2名、小藩から1名の入学枠を定めた「貢進生制度」を確立させました。その一期生として寿太郎は大学南校に入学しました。
小倉処平自身は西南の役で西郷方に加わり、銃創を受け現北川町で自害します。

桝本 卯平(ますもと うへい)(1873〜1931)
自然の人「小村寿太郎」の著者。
 日南市油津上町の旅館「桝本屋」の長男として生まれます。
 12歳で振徳堂に学び、更に志をもって上京し、小村寿太郎侯の書生となります。
 小村寿太郎侯の勧めにより造船学を専攻。小村侯の駐米公使着任をきっかけに一緒に渡米し、働きながら造船学を学びました。帰国後、間もなく今度は海軍国イギリスに渡ります。この間、米英の労働事情の研究にも没頭します。
 帰国後は、国内の造船所を渡り歩き、「造船界に桝本あり」と名を馳せました。

(じょしりん)(一真)(1599〜1678)
明人。ホイチー府シャンウー県出身。
 エリート階級出身。北京 → 長崎 → 鹿児島 と留学します。鹿児島で医学を学びます。
 後に、噂を聞きつけた飫肥藩主祐慶・祐久に藩医として重用されました。時に参勤交代に供するほどの信頼ぶりで関東方面にもその腕の良さは伝わったようです。
 隠居をようやく許してもらい、生まれ故郷の風景に良く似ているという事で、飫肥・楠原の小責(こじょめ)の里を貰い受けました。ここを「壷谷」と改称しました。3基ある墓はと侍医・門川杏林祐信夫妻の墓です。


 参考文献 : 「自然の人 小村寿太郎」 桝本卯平 著
          「ポーツマスの旗」     吉村 昭 著
          「飫肥地方の史跡孝」   吉田常政 著
          「飫肥藩先人伝」      圖師幸憲 著