事業所インタビューの最近のブログ記事

(会報2010年6月号掲載記事)

民宿 紺碧(須美江町)
 甲斐 寿夫さん(55) 幸子さん(52)


IMG_1667.jpg

―須美江町の民宿「紺碧」におじゃましています。新鮮な海の幸が味わえる民宿として人気を集めています。創業の経緯を教えてください。

幸子 昭和55年6月に結婚し、夫婦で「海の家」を始めたのが最初です。その後、須美江家族旅行村の整備で海の家が撤去されることになり、昭和60年6月から民宿として再スタートしました。
 海の家を始めたばかりの時はお客さんも少なく寂しい状況でしたが、2年目からパラソルを置いたり、店の構えを工夫したりした成果か、徐々にお客さんも増え、毎年来てくださる固定客ができるようになりました。
 

―当時の須美江は、どんな状況でしたか。

幸子 民宿ができたころは、大変にぎわっていました。海水浴シーズンは芋の子を洗うような状態。当時は交通事情も悪く、「やっと来たのだから」と腰をすえ、じっくり遊ぶ人が多かったですね。
 ボートも、それぞれの海の家が持っていたのに、順番待ちをしなければ乗れませんでした。各店がアルバイトを雇って対応していたぐらいです。

―グラスボートを運航していたこともありますね。

寿夫 平成元年から平成15年まで運航しました。島野浦で運航してグラスボートを譲り受け、須美江をスタートして島野浦を一周するコースで運航していました。
 「ビーチの森すみえ」が開園した平成7年ごろが民宿営業のピークで、グラスボートも大にぎわいでした。夏場は1日3便の運航でしたが、さらに臨時便2便を出すこともあり、多い日には1日の乗船者が200人を超すこともありました。
 老朽化が激しく、莫大な維持経費がかかるようになりやむなく廃船にしましたが、今考えるとグラスボートが無くなったことが、延岡にとって一番もったいないことだったと思います。
 サンゴなど延岡の海にはたくさんの観光資源があるのに、それらをじかに見ることができるのはダイバーの人たちなどほんの一握りです。グラスボートだと、たくさんの人にそうした資源を見ていただくことができますから。
 大人1000円、子供500円という低料金で、海蝕洞の千貫目を通り抜けたり、テーブルサンゴやオオスリバチサンゴを間近に見られる貴重な機会でした。

DPP07DA02010C0F18.jpg

―観光地引き網漁を始めたのはいつからですか。

寿夫 グラスボートをやめた翌年、平成16年からです。宮崎県が地引き網漁に対し許可を出してくれることになり、延岡市漁協が許可を取り、私が委託を受ける形で、市水産課と協議して金額、規模、期間を決めて取り組むようになりました。
 もともと須美江には、江戸時代から地引き網をしていた歴史があります。元網、新網の2網があり、交代で漁をしていていたのですが、新網の方はいつも漁がないことなどから、村を二分するいさかいになっていました。当時の普門寺の住職が、仲良くやっていくようにと浜に小さな経塚を作り、真砂石に法華経八巻を書いて埋め、和の心を説いたという話が伝わっています。それを復活させたいという話が以前からあり、県が許可を出してくれたのです。

 

―東九州伊勢えび海道の加盟店にもなっていますし、県の水産ブランドに認定された「一口あわび 浦の恵」の栽培にも一番早く取り組んだと聞いています。

寿夫 3年前から東九州伊勢えび海道に加入しました。今年で4年目を迎えますが、お客さんは年々増える傾向にあります。
 平成15年から始めた一口アワビ「浦の恵」はまだ軌道に乗っていませんので、養殖や販売方法について、もう少し本腰を入れていかないといけないと考えています。加工についても工夫してやっていきたい。

―幸子さんは一昨年、「農林漁家民宿おかあさん100選」に選ばれました。

幸子 過大に評価した記事をたくさん載せていただき、「私でいいのかな」とも思いましたが、選定を励みにさらに頑張らないといけないと考えています。
 水揚げした魚を使うため、少々待たせることもありましたが、新鮮な魚を生きているうちに調理し、少しでもおいしく食べていただけるように腐心してきました。一回来たお客様が掛けてくれる「おいしかった。また来るわ」という言葉に、励まされて今があると思います。
 延岡商工会議所のお力添えで「海賊丼」や「浦の恵丼」を出すようになりました。今後は、一口アワビを使った御膳物なども考えていきたいと思っています。
 
P1000959.jpg

・民宿紺碧
〒889-0321 宮崎県延岡市須美江町1426-1
TEL・FAX 0982-43-0211 (ホームページ

延岡商工会議所のホームページ

(会報2010年4月号掲載記事)

有限会社 ミスオ産業
ケーキの店 モンブラン(中央通)

代表取締役 宮井 里美さん(67)
  取締役 宮井 香 さん(40)

ケーキは笑顔がある場所にあるもの
お客さんとのふれあいを一番大事に


IMG_2073.jpg

――中央通にあります「ケーキの店 モンブラン」におじゃましています。街中のケーキ屋さんとしてすっかりおなじみですが、創業は何年だったのですか。

里美 創業は昭和48年、今年で36年になります。開業前は、平成16年に亡くなった主人(満洲男さん、当時64)の姉夫婦がやっていた「菊屋」という和洋菓子のお店で、私もそこを手伝っていました。姉夫婦が辞めるのを引き継いで、ケーキの店としてオープンしたのが最初です。
香 当時はバタークリームが主流でしたが、父が福岡に行った時に食べておいしかった生クリームを延岡に持ってこられないかと考え、当時としては珍しい生クリームを使ったケーキ屋としてオープンしたと聞いています。
 生クリームの輸送が難しく、なかなか手に入らなかったそうで、いろんな方に助けていただいたそうです。

IMG_2068.jpg

――創業当時から看板メニューは「モンブラン」だと聞いていますが、店名はケーキの名前から取ったのですか。

香 父からは、山の名前を付けたかったから響きのいい「モンブラン」にしたと聞いています。
里美 私と主人は方財町生まれです。主人はもともと電気屋で、創業当時はケーキ職人を雇って営業していました。そのうち自分で作るようになったのです。
香 父はもともと料理を作ったりするのが好きで、お姉さん夫婦の手伝いをしているうちに技術を覚えたようです。食べ物に関しては、何でも器用にこなすタイプでしたから。
里美 「モンブラン」の作り方は、創業当時から変わっていません。中のスポンジと、上の栗餡と生クリームを一緒にすくって食べるのが、おいしく食べるコツです。

――お店の一番の特徴は何ですか。

香 鮮度が一番だと考えています。冷凍している商品はありません。その日作ったものは、その日に売ってしまうようにしています。香料も使っていませんので、子供たちも安心して食べられると思います。
 また、ケーキの材料には、地産地消というか、なるだけ宮崎県内で取れるものを使うようにしています。
 秋限定の和栗づくしに使う栗も、日之影や北方の生産地に行き仕入れています。ただ、近郊にあるいい材料はすぐ県外に出てしまうのが残念です。もう少し県内に残して浸透させてほしいですね。とれたての栗の方が剥きやすいので、地元で調達した方がお店としてもいいですから。

IMG_2061.jpg

――営業時間を教えてください。

香 年中無休で、月―木は午後11時半、金・土は午前零時、日・祝日は午後10時半まで営業しています。
 父から「365日、誕生日の人はいるのだから、誕生日にケーキでお祝いをしてやれるようにしなさい」と教えられました。
里美 誕生日は1年に1回しかないですから。夜は、若い女の子のちょっとした駆け込み寺にもなっています。商店街は午後10時で街灯を消してしまいますので。もう少し、最終バスの時間ぐらいまでは点けていてほしいですね。
香 バス停が近いので、電話でバスの時間を聞いてくる人や、「バス停に忘れ物をしたので、あるかどうか見てもらえませんか」という電話もあります。
 しかし、それは大事なことかもしれません。お客さんが中央通りのバス停の近くにモンブランがあると覚えてくれている。認識がもうあるという証ですから。お客さんとのふれ合いを一番大事に考えていますので、うれしいことです。

――昔ながらの街のケーキ屋さんという基本が受け継がれているのですね。

香 私たちが守っているというよりも、お客さんに守られているという感じです。お客さんが店に寄ってくれて、世間話をしてケーキ買って帰っていく。買わなくても会話があるということが大事。昔からあるというのは、そういう部分を守っていくことなのかなと考えています。
里美 お客さんと接して、おしゃべりすることが楽しいですね。ケーキは家族、友達、親戚とかの笑顔がある場所に必ずあるもので、一人で食べるものじゃないですから。そういう笑顔があふれる街になるとうれしいですね。

延岡商工会議所のホームページ
(会報2010年新年号掲載)

らーめん 再来軒
変わらぬ味を提供し続ける老舗ラーメン店

代表 大野 隆治さん(54)
    大野 記美代さん(50)

IMG_0810.jpg―旭町の「ラーメン 再来軒」におじゃましています。延岡を代表するラーメン店として、市内外の人から親しまれています。創業50余年と伺っていますが、創業時のことをお聞かせください。

隆治 昭和30年に祇園中通りの入口(今の三共食堂)で大衆食堂として始めたのが最初です。うどんやライスカレー、親子丼などのほか、甘酒まんじゅうを売っていました。その一角でコーナー的に再来軒としてラーメンを出し始めたのが発祥です。
 35年に春日町に移転し、ラーメン専門店になりました。ラーメンのほか、ワンタンメンなども出していました。39年に現在地に落ち着き、51年に店舗を2階に上げ今の形になりました。

―再来軒のラーメンは、久留米ラーメンの系譜を受け継いでいると言われていますが。

隆治 祇園中時代に、久留米からラーメンの職人さんを呼んで始めたのがきっかけです。その時に「再来軒」という名前も付けました。私も博多や久留米にラーメンを食べに行きますが、久留米ラーメンを食べると「自分の店に似ているな」と感じます。

IMG_0816.jpg

―店を継いだのはいつですか。

隆治 東京の京王プラザホテルで働いている時に「戻ってこい」と言われUターンしました。1年ぐらい父と一緒に仕事をしていましたが、昭和52年に父(義雄さん)が脳溢血で急逝し、そのまま店を継ぐことになりました。
 父が倒れる前に、ラーメンを作ってくれと言うので作ってあげました。食べた父が「おいしかった」と言ってくれたのが最後になってしまいました。志半ばで延岡に戻った当時は少しやけになっていたのですが、「これは遊び半分でやっちゃいけない」と思い直しました。

―半世紀の間に、お客さんに変化は見られますか。

隆治 来店されるお客さんの数は変わらないと思います。今、全国宅配をしていますが、昨年の暮れは多かったですね。帰省しない人たちが「食べたいので送ってください」と。宅配は充実して増えてきています。
 わざわざ店に来なくても、家庭で同じ味が食べられるように、店で出すラーメンとまったく同じ作り方をして発送しています。ネギ、メンマ、焼豚が付いてワンセット。クール便で送っています。同じスープを使っていますので、どこでも同じ味が楽しめます。
 今後は、この全国宅配にさらに力を入れたいと考えており、宅配用のスペースを拡張したいと思っています。ただ、店舗自体はこれ以上広げるつもりはありません。店舗が広くなれば、おいしいラーメンを作れるワケではありませんから。待たせたり、伸びたラーメンを出すよりもこれぐらいのキャパの方がいいと考えています。

―50年以上も愛されてきた秘密は何でしょうか。

隆治 変わらないことじゃないでしょうか。作り方はずっと変えていませんので。
 年末年始やお盆に帰省してくる人たちが懐かしいと思って食べに来てくれますが、その人たちが食べた味は翌年まで記憶に残っているので、もし味が変わっているとガッカリして、翌年はもう来てくれませんよね。ですから普段来てくれている人はもちろんのこと、帰省されてくる方達に変わらぬ味を食べてもらえるように気を遣っています。

―今後の抱負を聞かせてください。

隆治 今後も豚骨ラーメン専門店として頑張っていきます。
 ただ、豚骨一本と言っても見た目以上に大変な仕事です。妻は正月など朝の3時に起きてスープの仕込みに追われていました。
 最近は、簡単にラーメンを作る方法がたくさんあり、お湯で伸ばすだけで専門店に負けないこくのあるスープが簡単に作れるようになっているのですが、私は頑なに仕込みから手作りにこだわっていきたいと思います。
 麺もスープも添加物は一切使っていません。毎日食べに来られる人もたくさんいますし、いつまでも飽きのこない、いつでも食べられる食事として、安心・安全なラーメンを提供し続けていきたいと考えています。

延岡商工会議所のホームページ

(会報2009年12月号掲載記事)
加盟会員インタビュー44 業界奮戦記

ぎょうざの黒兵衛(くろべえ)
代表 黒木 浩 さん(27)   黒木 幾代さん(60)

老舗の味を守り続ける
宮崎餃子の草分け


―新町の「ぎょうざの黒兵衛」におじゃましています。宮崎県内においしい餃子(ギョーザ)を広めた老舗として知られていますが、創業して何年になりますか。


浩 高鍋町役場に勤務していた父(清さん=89)が、公務員を辞め昭和30年に開業し、今年で創業54年目です。父が体調を崩して引退した後を母(幾代さん)が継ぎ、3年前から私が受け継いでいます。

IMG_8433.jpg

幾代 餃子づくりは、戦時中に満州で中国の方に教わったと聞いています。中国人家庭でごちそうしてもらったのがヒントです。中国の方は丹念に粉をこね、半日かけて作っていたそうです。それが原点になっていますが、「皮づくりだけは中国の人の真似はできない」と言っていました。

 中国と日本では気候・風土が違いますので、中身の具を中国と同じにしては日本人に食べてもらえません。そこで研究を重ねながら、日本人に合い、万人に食べてもらえ、商売として成り立つ方法を確立させていったようです。

―役場時代の上司が清さんに作り方を教わり脱サラして店を開き、高鍋町が「餃子の町」と呼ばれるようになったと聞いています。

浩 2人の兄や修業した方たちが延岡市内はもとより、高鍋町、宮崎市、都城市、福岡市、人吉市(熊本県)、松山市(愛媛県)などで独立し開業しています。

 私は、昔から父の背中を見て育ってきました。父親という肩書き以上に尊敬の念が強く、遠くもあり近くもある存在でした。すごいなという気持ちはずっと変わりません。

 自分は用意されて継ぐ形ですが、父の場合は脱サラして何もない状態、ゼロからのスタートでした。しかも、いろんな人に味を教え、広めていった。今、いろんな場所で親父の味が生きているということもすごいと思います。

幾代 屋号の由来は、夫が兵隊時代に兵長だったことから、かわいがっていただいた隊長が親しみ込め黒木兵長を略し「くろべえ」と呼んでいたことに由来します。「あの人のおかげで今の自分がいる。その恩を忘れないように」と命名したそうです。

IMG_8417.jpg

―ここまで続けてこられた秘訣は何ですか。

浩 愚直に作り方、材料、味を変えなかったことだと思います。時代の流れに乗って変えていくことも大事だとは思いますが、うちは昔から何も変えていません。国産の材料を使い、すべて手作りです。具は牛と豚の合挽肉とキャベツ、ニラ、ニンニク。タレや粉も様々な物を試し、ベストな調合を見つけだし、今に至っています。皮と中身を交互ぐらいに朝から仕込んで寝かせ、昼の間少し休んで、午後5時から営業開始というスタイルをずっと続けています。

 いつかは自分が店を守らないといけないんだろうなという気持ちは小さいころからありましたが、学校を出た後、私は7年間北海道におり、サラリーマンしたり、飲食業に従事したりしていました。そんな時、体を悪くした父から直接電話があり「店をやってくれないか」と頼まれ、半年後に帰ってきました。

―老舗を継いで、大変だと思う点は何ですか。

浩 黒兵衛の餃子の一番の特徴は皮にあります。皮のもちもち感が機械では絶対出せないという自信があります。粉の状態から全部手作りですから。その作業が一番大変です。

 仕込みの際の皮の厚さ、包む際のひだの出来具合でも食感は変わってきますし、焼く時のこつもあります。そうした一つひとつの過程が全部揃って初めて、黒兵衛の餃子ができます。フロントに立ってお客さんに提供するだけが仕事ではなく、見えないところでよりいいものを作ることが大事なんです。

 父からは直接教わったことは何もなく、父や母の仕事ぶりを見ながら作り方を覚えました。満足するものができるまでは、自分で作った餃子を自分で食べてみるという作業を、毎日繰り返しました。今やっと、人様に出せるものができるようになった、というぐらいです。これからも日々精進し、より良い物を提供していきたいと思います。

20091116 005.jpg

―今後の目標を聞かせてください。


浩 50年、100年とこの味を守り続けていくことですね。父は全国広めたいという気持ちで作り方を無償で教えてきました。これからは私がその中心となり、延岡に帰ってきた人たちが「懐かしい。まだあったんだ」と言ってもらえるように続けていきたい。

 昔ながらのお客さんにも親しんでもらいながら、新しいお客さんをどう増やしていくかが一番の課題です。黒兵衛の名前を知らない人はまだいっぱいいますし、どうやって広めていこうかと考えています。


延岡商工会議所のホームページ
(会報2009年10月号掲載)

加盟会員インタビュー(43)業界奮戦記
三野製麺所
店主 三野 吉照(77)


のべおか日曜朝市の定着に功績 安心・安全な食を守り続ける老舗
 

―北小路の三野製麺所におじゃましています。これまでの歩みを教えてください。

三野 製麺所を始めたのは祖父の林吉です。2代目が父の寅一で、私は3代目。創業は覚えやすいように大正10年10月10日にしていますが、実際はそれより前でした。
 祖父は槙峰鉱山で職長をしており、定年し退職金で北小路に家を建てました。父は旧制・延岡中学を4年で辞め、東京に出て早稲田大学の手甲(予科)に入り、卒業するとすぐに兵役に取られました。そのため戦時中は、祖父母と母、2人の叔母、5―6人の従業員で店を守っていました。祖父は昭和17年ごろに亡くなりましたので、私も小学校6年生ぐらいの時には製麺所を手伝うようになっていました。

三野2.jpg


―店を継がれたのはいつですか。
 
三野 昭和33年ごろ、26歳の時です。
 当時、私は大学の入学試験に合格していましたが、兄は徳島高専に行き、弟は「製麺所なんて継げない」と大阪に出て行ったため、なかなか親に言い出せません。ほとぼりが冷めた頃、合格通知を親に見せたら「こんなご時世、製麺所を継ぐ必要なんてない。大学に行けば良かったのに」と叱られたのを覚えています。

―製麺所を経営される上で重視されていることがありますか。

三野 将来は食品添加物の時代が来ると考え、昭和43年に横浜の日本配合飼料研究所の研修員になりました。その時の経験から、食品添加物を一切使用しないということを貫いています。添加物を使わないとシャキッと腰のあるうどんができますが、使うと真っ白でベチャとしています。
 食品添加物を使っても健康被害はないと言われていますが、一つなら関係なくても、食べ合わせというか相乗効果で関係が出てくる場合があります。製麺業者の中にも、コストを下げるため2級品の粉を使い、色が黒くなるのを防ぐため添加物、増量剤を入れている所もあります。市民の皆さんはそうした現状を知らずに食べていますし、作る側も何も知らずに作っています。知って作っていたらそれこそ怖いことです。食品を扱う以上、医学の知識もいくらかないといけません。
 10年かかるか20年かかるかは分かりませんが、いずれ少々高くても安全なものを求める時期が必ずくると思っています。それまでは今のポリシーを絶対守っていきたいと考えています。

―のべおか日曜朝市の会長として昨年3月に延岡商工会議所のふるさと功労賞を受けられました。

三野 
日曜朝市は昭和57年にスタートし、今年で27年目を迎えます。
 当時、市内各地で朝市が開かれていましたが、どれも長続きしませんでした。地場産業開発協議会も農協とタイアップして朝市をしようとしましたが、なかなかうまくいかないため、どうしたらいいものかと当時延岡駅前で朝市を開いていた私たちに相談に来られました。
 そこで私と当時市議会議員だった矢野鶴実さん(故人)で始めたのが市役所前での日曜朝市です。矢野さんは議員でしたので、民間の私が会長を引き受けることになりました。発足した年に地場産業協議会の中に日曜市運営協議会を作りました。
当時の早生隆彦市長にお願いし、市役所前に放送設備を整備してもらいました。また、市庁舎を開放してもらい、トイレを使わせてもらうようにしました。ああいうイベントを開く時に、一番考えないといけないのがトイレの確保ですから。

三fdsa野1.jpg


―日曜朝市の今後の展開を教えてください。


三野 高齢化が進み一時期は100店舗まで増えた出店者が、最近は36店舗にまで減ってきました。
 市役所のある川中地区自体も空洞化が進んでいます。しかし、そこで生活し朝市を頼りにしてくれている人たちがおり、その人たちのためにもまだまだやめるわけにはいきません。そこで今、いろんな戦略を練っているところです。10月からは北浦のあげみ業者が出店してくれることが決まりました。
 今後は延岡商工会議所の協力などを得ながら、日曜朝市が第1、第3日曜日に実施されていることを広く告知できるようなポスターを制作し、市内のホテルや旅館、商店などに張ってもらえないかと考えています。
 会議所や市役所などのバックアップを仰ぐことで、出店者や来店者の意識を高めていきたいと考えています。

延岡商工会議所のホームページ



企業や商店街と連携してまちづくりと子育て支援を

IMG_3735wsdjo98.jpg

延岡商工会議所加盟会員インタビュー42
業界奮戦記


延岡市子育て支援協議会会長 木本 宗雄さん(65)

―延岡市子育て支援協議会は、NPO法人として延岡商工会議所会員になった第1号です。入会の動機を教えてください。

木本 これからの子育て支援は、企業が介入してこないと根本的な解決にならないと考えています。1歳ぐらいまで育児休業が取れ、働かずに子供をゆっくり見ることができ、それが一段落したら保育園に子供を預け職場復帰できるような社会を造るのが理想です。
 そのためには、企業側のインセンティブになるような税制上の優遇措置などを国や県が設ける必要はありますが、企業がそういう風に変わっていくと、保育園側が今までのように頑張らなくてもよくなるのです。
 保育園事業はあくまで対処療法であり、本当はそうした根本から世の中の仕組みが変わっていかないと、少子化の流れは止まらないでしょうし、児童虐待などもなくなりません。1歳ぐらいまでに親子関係を通じてしっかりとした人間関係を築くことが必要です。
 1年間ぐらいは仕事を休み、「おやこの森」のような場所に親子で遊びに来る姿が理想です。そのためには企業側ばかりを批判するのではなく、我々が仲間に入ることで、企業や商店街と連携してまちづくりに寄与しながら子育て支援ができればいいなと考え、入会しました。

―「おやこの森」ではどんな事業を展開しているのですか。

木本 
平成11年に国の少子化特例交付金の助成を受け、旧旭児童館を改築整備したのが「おやこの森」です。運営は市からの委託事業が中心です。子育て支援センター事業、病後児の保育事業、母親同士をつなぐファミリーサポートセンターのコーディネート費用などでまかなっています。ココレッタ延岡のキッズホームも委託を受けて運営しています。
 平成16年に、自主事業で始めたのが保育サポーター事業です。ファミリーサポート事業は普通のお母さんが他人の子供を預かる訳で、保育園の送迎をしたり、2―3時間面倒見てくれたりはしますが、熱のある子とか、深夜とかには預かりません。
 これに対して保育サポーターは、保育士や看護師の資格を持つなど専門性があり、深夜におよぶ時や病気の子供がいる時などが出番です。ファミリーサポートのバージョンアップ版です。
 「おやこの森」には7、8人の職員と、それを取り巻く35人の保育サポーター、そしてさらにファミリーサポートする援助会員が約40人おり、三重構造になっています。この仕組みがなかなかいいですね。特に保育サポーターについては、その人たちのおかげで運営がなんとか成り立っている側面があり、何とか日が当たるようにしたいと常々考えています。
 父子家庭で、父親が出張に行く時にはわざわざ県外の実家まで連れて帰っていた人がいたのですが、サポーターに母子家庭のお母さんがおり出張の間預かることになったら、涙を流して喜んだという話があります。そういう人が結構いるのです。このシステムを制度化するなど、国がもっと支援してくれるといいのですが...。

IMG_3756sh7dw2.jpg

―今後の展開を教えてください。

木本 これからは集団保育を受け持つ保育園と、在宅の子育て支援で取り組む部分とを分けて考えていかないといけないでしょう。病気の子供、乳児とかは1対1で見るシステムがよく、保育サポーターが保育園の隙間を埋める役目を担っています。
 国には保育ママという制度があり、その保育ママ制度や保育サポーター制度をさらに充実させ、何かしらの報酬を与えられるようにならないか。現在の1時間500円の報酬では、病気の子供を預かってもらうことはできません。せめて最低賃金ぐらいの報酬で頼めるようにしないといけません。ボランティアには限界があります。システムとして考え、確立していかないといけません。
 また、地域には働いていない親が結構いますが、核家族化して地域とのつながりが薄れる中、そうした人たちは情報を持っていません。「おやこの森」に遊びに来るような人は大丈夫ですが、閉じこもってしまっている人たちを探しだし、その人たちに情報提供する「家庭訪問員」の制度なども充実させたいと考えています。訪問して相談に乗るだけでは駄目な人には、サポーターを派遣するような、そういう仕組みを充実させていきたいですね。

延岡商工会議所のホームページ

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち事業所インタビューカテゴリに属しているものが含まれています。

次のカテゴリは会員のひろばです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。


アクセスカウンター



現在の閲覧者数: 設置日:2008/9/25

2010年8月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

アイテム

  • P1010517.jpg
  • koutei.jpg
  • CIMG0665.jpg
  • DSCF0708.jpg
  • P1000103.jpg
  • DSC_0047.jpg
  • DSC_0022.jpg
  • DSC_0008.jpg
  • DSC_0006.jpg
  • P1010511.jpg

Techonrati

Technorati search

» リンクしているブログ


最新情報