事業所インタビューの最近のブログ記事

(会報2010年新年号掲載)

らーめん 再来軒
変わらぬ味を提供し続ける老舗ラーメン店

代表 大野 隆治さん(54)
    大野 記美代さん(50)

IMG_0810.jpg―旭町の「ラーメン 再来軒」におじゃましています。延岡を代表するラーメン店として、市内外の人から親しまれています。創業50余年と伺っていますが、創業時のことをお聞かせください。

隆治 昭和30年に祇園中通りの入口(今の三共食堂)で大衆食堂として始めたのが最初です。うどんやライスカレー、親子丼などのほか、甘酒まんじゅうを売っていました。その一角でコーナー的に再来軒としてラーメンを出し始めたのが発祥です。
 35年に春日町に移転し、ラーメン専門店になりました。ラーメンのほか、ワンタンメンなども出していました。39年に現在地に落ち着き、51年に店舗を2階に上げ今の形になりました。

―再来軒のラーメンは、久留米ラーメンの系譜を受け継いでいると言われていますが。

隆治 祇園中時代に、久留米からラーメンの職人さんを呼んで始めたのがきっかけです。その時に「再来軒」という名前も付けました。私も博多や久留米にラーメンを食べに行きますが、久留米ラーメンを食べると「自分の店に似ているな」と感じます。

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―店を継いだのはいつですか。

隆治 東京の京王プラザホテルで働いている時に「戻ってこい」と言われUターンしました。1年ぐらい父と一緒に仕事をしていましたが、昭和52年に父(義雄さん)が脳溢血で急逝し、そのまま店を継ぐことになりました。
 父が倒れる前に、ラーメンを作ってくれと言うので作ってあげました。食べた父が「おいしかった」と言ってくれたのが最後になってしまいました。志半ばで延岡に戻った当時は少しやけになっていたのですが、「これは遊び半分でやっちゃいけない」と思い直しました。

―半世紀の間に、お客さんに変化は見られますか。

隆治 来店されるお客さんの数は変わらないと思います。今、全国宅配をしていますが、昨年の暮れは多かったですね。帰省しない人たちが「食べたいので送ってください」と。宅配は充実して増えてきています。
 わざわざ店に来なくても、家庭で同じ味が食べられるように、店で出すラーメンとまったく同じ作り方をして発送しています。ネギ、メンマ、焼豚が付いてワンセット。クール便で送っています。同じスープを使っていますので、どこでも同じ味が楽しめます。
 今後は、この全国宅配にさらに力を入れたいと考えており、宅配用のスペースを拡張したいと思っています。ただ、店舗自体はこれ以上広げるつもりはありません。店舗が広くなれば、おいしいラーメンを作れるワケではありませんから。待たせたり、伸びたラーメンを出すよりもこれぐらいのキャパの方がいいと考えています。

―50年以上も愛されてきた秘密は何でしょうか。

隆治 変わらないことじゃないでしょうか。作り方はずっと変えていませんので。
 年末年始やお盆に帰省してくる人たちが懐かしいと思って食べに来てくれますが、その人たちが食べた味は翌年まで記憶に残っているので、もし味が変わっているとガッカリして、翌年はもう来てくれませんよね。ですから普段来てくれている人はもちろんのこと、帰省されてくる方達に変わらぬ味を食べてもらえるように気を遣っています。

―今後の抱負を聞かせてください。

隆治 今後も豚骨ラーメン専門店として頑張っていきます。
 ただ、豚骨一本と言っても見た目以上に大変な仕事です。妻は正月など朝の3時に起きてスープの仕込みに追われていました。
 最近は、簡単にラーメンを作る方法がたくさんあり、お湯で伸ばすだけで専門店に負けないこくのあるスープが簡単に作れるようになっているのですが、私は頑なに仕込みから手作りにこだわっていきたいと思います。
 麺もスープも添加物は一切使っていません。毎日食べに来られる人もたくさんいますし、いつまでも飽きのこない、いつでも食べられる食事として、安心・安全なラーメンを提供し続けていきたいと考えています。

延岡商工会議所のホームページ

(会報2009年12月号掲載記事)
加盟会員インタビュー44 業界奮戦記

ぎょうざの黒兵衛(くろべえ)
代表 黒木 浩 さん(27)   黒木 幾代さん(60)

老舗の味を守り続ける
宮崎餃子の草分け


―新町の「ぎょうざの黒兵衛」におじゃましています。宮崎県内においしい餃子(ギョーザ)を広めた老舗として知られていますが、創業して何年になりますか。


浩 高鍋町役場に勤務していた父(清さん=89)が、公務員を辞め昭和30年に開業し、今年で創業54年目です。父が体調を崩して引退した後を母(幾代さん)が継ぎ、3年前から私が受け継いでいます。

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幾代 餃子づくりは、戦時中に満州で中国の方に教わったと聞いています。中国人家庭でごちそうしてもらったのがヒントです。中国の方は丹念に粉をこね、半日かけて作っていたそうです。それが原点になっていますが、「皮づくりだけは中国の人の真似はできない」と言っていました。

 中国と日本では気候・風土が違いますので、中身の具を中国と同じにしては日本人に食べてもらえません。そこで研究を重ねながら、日本人に合い、万人に食べてもらえ、商売として成り立つ方法を確立させていったようです。

―役場時代の上司が清さんに作り方を教わり脱サラして店を開き、高鍋町が「餃子の町」と呼ばれるようになったと聞いています。

浩 2人の兄や修業した方たちが延岡市内はもとより、高鍋町、宮崎市、都城市、福岡市、人吉市(熊本県)、松山市(愛媛県)などで独立し開業しています。

 私は、昔から父の背中を見て育ってきました。父親という肩書き以上に尊敬の念が強く、遠くもあり近くもある存在でした。すごいなという気持ちはずっと変わりません。

 自分は用意されて継ぐ形ですが、父の場合は脱サラして何もない状態、ゼロからのスタートでした。しかも、いろんな人に味を教え、広めていった。今、いろんな場所で親父の味が生きているということもすごいと思います。

幾代 屋号の由来は、夫が兵隊時代に兵長だったことから、かわいがっていただいた隊長が親しみ込め黒木兵長を略し「くろべえ」と呼んでいたことに由来します。「あの人のおかげで今の自分がいる。その恩を忘れないように」と命名したそうです。

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―ここまで続けてこられた秘訣は何ですか。

浩 愚直に作り方、材料、味を変えなかったことだと思います。時代の流れに乗って変えていくことも大事だとは思いますが、うちは昔から何も変えていません。国産の材料を使い、すべて手作りです。具は牛と豚の合挽肉とキャベツ、ニラ、ニンニク。タレや粉も様々な物を試し、ベストな調合を見つけだし、今に至っています。皮と中身を交互ぐらいに朝から仕込んで寝かせ、昼の間少し休んで、午後5時から営業開始というスタイルをずっと続けています。

 いつかは自分が店を守らないといけないんだろうなという気持ちは小さいころからありましたが、学校を出た後、私は7年間北海道におり、サラリーマンしたり、飲食業に従事したりしていました。そんな時、体を悪くした父から直接電話があり「店をやってくれないか」と頼まれ、半年後に帰ってきました。

―老舗を継いで、大変だと思う点は何ですか。

浩 黒兵衛の餃子の一番の特徴は皮にあります。皮のもちもち感が機械では絶対出せないという自信があります。粉の状態から全部手作りですから。その作業が一番大変です。

 仕込みの際の皮の厚さ、包む際のひだの出来具合でも食感は変わってきますし、焼く時のこつもあります。そうした一つひとつの過程が全部揃って初めて、黒兵衛の餃子ができます。フロントに立ってお客さんに提供するだけが仕事ではなく、見えないところでよりいいものを作ることが大事なんです。

 父からは直接教わったことは何もなく、父や母の仕事ぶりを見ながら作り方を覚えました。満足するものができるまでは、自分で作った餃子を自分で食べてみるという作業を、毎日繰り返しました。今やっと、人様に出せるものができるようになった、というぐらいです。これからも日々精進し、より良い物を提供していきたいと思います。

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―今後の目標を聞かせてください。


浩 50年、100年とこの味を守り続けていくことですね。父は全国広めたいという気持ちで作り方を無償で教えてきました。これからは私がその中心となり、延岡に帰ってきた人たちが「懐かしい。まだあったんだ」と言ってもらえるように続けていきたい。

 昔ながらのお客さんにも親しんでもらいながら、新しいお客さんをどう増やしていくかが一番の課題です。黒兵衛の名前を知らない人はまだいっぱいいますし、どうやって広めていこうかと考えています。


延岡商工会議所のホームページ
(会報2009年10月号掲載)

加盟会員インタビュー(43)業界奮戦記
三野製麺所
店主 三野 吉照(77)


のべおか日曜朝市の定着に功績 安心・安全な食を守り続ける老舗
 

―北小路の三野製麺所におじゃましています。これまでの歩みを教えてください。

三野 製麺所を始めたのは祖父の林吉です。2代目が父の寅一で、私は3代目。創業は覚えやすいように大正10年10月10日にしていますが、実際はそれより前でした。
 祖父は槙峰鉱山で職長をしており、定年し退職金で北小路に家を建てました。父は旧制・延岡中学を4年で辞め、東京に出て早稲田大学の手甲(予科)に入り、卒業するとすぐに兵役に取られました。そのため戦時中は、祖父母と母、2人の叔母、5―6人の従業員で店を守っていました。祖父は昭和17年ごろに亡くなりましたので、私も小学校6年生ぐらいの時には製麺所を手伝うようになっていました。

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―店を継がれたのはいつですか。
 
三野 昭和33年ごろ、26歳の時です。
 当時、私は大学の入学試験に合格していましたが、兄は徳島高専に行き、弟は「製麺所なんて継げない」と大阪に出て行ったため、なかなか親に言い出せません。ほとぼりが冷めた頃、合格通知を親に見せたら「こんなご時世、製麺所を継ぐ必要なんてない。大学に行けば良かったのに」と叱られたのを覚えています。

―製麺所を経営される上で重視されていることがありますか。

三野 将来は食品添加物の時代が来ると考え、昭和43年に横浜の日本配合飼料研究所の研修員になりました。その時の経験から、食品添加物を一切使用しないということを貫いています。添加物を使わないとシャキッと腰のあるうどんができますが、使うと真っ白でベチャとしています。
 食品添加物を使っても健康被害はないと言われていますが、一つなら関係なくても、食べ合わせというか相乗効果で関係が出てくる場合があります。製麺業者の中にも、コストを下げるため2級品の粉を使い、色が黒くなるのを防ぐため添加物、増量剤を入れている所もあります。市民の皆さんはそうした現状を知らずに食べていますし、作る側も何も知らずに作っています。知って作っていたらそれこそ怖いことです。食品を扱う以上、医学の知識もいくらかないといけません。
 10年かかるか20年かかるかは分かりませんが、いずれ少々高くても安全なものを求める時期が必ずくると思っています。それまでは今のポリシーを絶対守っていきたいと考えています。

―のべおか日曜朝市の会長として昨年3月に延岡商工会議所のふるさと功労賞を受けられました。

三野 
日曜朝市は昭和57年にスタートし、今年で27年目を迎えます。
 当時、市内各地で朝市が開かれていましたが、どれも長続きしませんでした。地場産業開発協議会も農協とタイアップして朝市をしようとしましたが、なかなかうまくいかないため、どうしたらいいものかと当時延岡駅前で朝市を開いていた私たちに相談に来られました。
 そこで私と当時市議会議員だった矢野鶴実さん(故人)で始めたのが市役所前での日曜朝市です。矢野さんは議員でしたので、民間の私が会長を引き受けることになりました。発足した年に地場産業協議会の中に日曜市運営協議会を作りました。
当時の早生隆彦市長にお願いし、市役所前に放送設備を整備してもらいました。また、市庁舎を開放してもらい、トイレを使わせてもらうようにしました。ああいうイベントを開く時に、一番考えないといけないのがトイレの確保ですから。

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―日曜朝市の今後の展開を教えてください。


三野 高齢化が進み一時期は100店舗まで増えた出店者が、最近は36店舗にまで減ってきました。
 市役所のある川中地区自体も空洞化が進んでいます。しかし、そこで生活し朝市を頼りにしてくれている人たちがおり、その人たちのためにもまだまだやめるわけにはいきません。そこで今、いろんな戦略を練っているところです。10月からは北浦のあげみ業者が出店してくれることが決まりました。
 今後は延岡商工会議所の協力などを得ながら、日曜朝市が第1、第3日曜日に実施されていることを広く告知できるようなポスターを制作し、市内のホテルや旅館、商店などに張ってもらえないかと考えています。
 会議所や市役所などのバックアップを仰ぐことで、出店者や来店者の意識を高めていきたいと考えています。

延岡商工会議所のホームページ



企業や商店街と連携してまちづくりと子育て支援を

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延岡商工会議所加盟会員インタビュー42
業界奮戦記


延岡市子育て支援協議会会長 木本 宗雄さん(65)

―延岡市子育て支援協議会は、NPO法人として延岡商工会議所会員になった第1号です。入会の動機を教えてください。

木本 これからの子育て支援は、企業が介入してこないと根本的な解決にならないと考えています。1歳ぐらいまで育児休業が取れ、働かずに子供をゆっくり見ることができ、それが一段落したら保育園に子供を預け職場復帰できるような社会を造るのが理想です。
 そのためには、企業側のインセンティブになるような税制上の優遇措置などを国や県が設ける必要はありますが、企業がそういう風に変わっていくと、保育園側が今までのように頑張らなくてもよくなるのです。
 保育園事業はあくまで対処療法であり、本当はそうした根本から世の中の仕組みが変わっていかないと、少子化の流れは止まらないでしょうし、児童虐待などもなくなりません。1歳ぐらいまでに親子関係を通じてしっかりとした人間関係を築くことが必要です。
 1年間ぐらいは仕事を休み、「おやこの森」のような場所に親子で遊びに来る姿が理想です。そのためには企業側ばかりを批判するのではなく、我々が仲間に入ることで、企業や商店街と連携してまちづくりに寄与しながら子育て支援ができればいいなと考え、入会しました。

―「おやこの森」ではどんな事業を展開しているのですか。

木本 
平成11年に国の少子化特例交付金の助成を受け、旧旭児童館を改築整備したのが「おやこの森」です。運営は市からの委託事業が中心です。子育て支援センター事業、病後児の保育事業、母親同士をつなぐファミリーサポートセンターのコーディネート費用などでまかなっています。ココレッタ延岡のキッズホームも委託を受けて運営しています。
 平成16年に、自主事業で始めたのが保育サポーター事業です。ファミリーサポート事業は普通のお母さんが他人の子供を預かる訳で、保育園の送迎をしたり、2―3時間面倒見てくれたりはしますが、熱のある子とか、深夜とかには預かりません。
 これに対して保育サポーターは、保育士や看護師の資格を持つなど専門性があり、深夜におよぶ時や病気の子供がいる時などが出番です。ファミリーサポートのバージョンアップ版です。
 「おやこの森」には7、8人の職員と、それを取り巻く35人の保育サポーター、そしてさらにファミリーサポートする援助会員が約40人おり、三重構造になっています。この仕組みがなかなかいいですね。特に保育サポーターについては、その人たちのおかげで運営がなんとか成り立っている側面があり、何とか日が当たるようにしたいと常々考えています。
 父子家庭で、父親が出張に行く時にはわざわざ県外の実家まで連れて帰っていた人がいたのですが、サポーターに母子家庭のお母さんがおり出張の間預かることになったら、涙を流して喜んだという話があります。そういう人が結構いるのです。このシステムを制度化するなど、国がもっと支援してくれるといいのですが...。

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―今後の展開を教えてください。

木本 これからは集団保育を受け持つ保育園と、在宅の子育て支援で取り組む部分とを分けて考えていかないといけないでしょう。病気の子供、乳児とかは1対1で見るシステムがよく、保育サポーターが保育園の隙間を埋める役目を担っています。
 国には保育ママという制度があり、その保育ママ制度や保育サポーター制度をさらに充実させ、何かしらの報酬を与えられるようにならないか。現在の1時間500円の報酬では、病気の子供を預かってもらうことはできません。せめて最低賃金ぐらいの報酬で頼めるようにしないといけません。ボランティアには限界があります。システムとして考え、確立していかないといけません。
 また、地域には働いていない親が結構いますが、核家族化して地域とのつながりが薄れる中、そうした人たちは情報を持っていません。「おやこの森」に遊びに来るような人は大丈夫ですが、閉じこもってしまっている人たちを探しだし、その人たちに情報提供する「家庭訪問員」の制度なども充実させたいと考えています。訪問して相談に乗るだけでは駄目な人には、サポーターを派遣するような、そういう仕組みを充実させていきたいですね。

延岡商工会議所のホームページ

(2009年4月号掲載)
代表取締役会長 丸山哲弘(84)
代表取締役社長 丸山 賢(61)


有限会社・すしの丸安(祇園町)

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―祇園町のすしの丸安におじゃましています。市内でも老舗の寿司店とうかがってますが。

丸山(哲) 現在営業している寿司店としては市内で二番目に古く、現役の経営者では私が最長老でしょう。開業は昭和二十五年十一月二十三日。今山八幡宮の秋祭りの日でした。最初から寿司店だったわけではなく、食堂兼喫茶店みたいな店でした。当時、この祇園中通り周辺は畑が多く、おじが経営する映画館(東宝祇園館)のほか、焼け残りの店が二、三軒あったぐらい。その映画館の経理を手伝っていて、その副業みたいな形で始めたのが最初です。

 おじは最初「ふぐ安」という料理店をしており、そこに料理見習いでお世話になったのが、この道に入ったきっかけです。私の名字の一字とおじの店の一字を取って「丸安」と名付けました。「丸」はお金に通じますので、文字通り安い価格で営業を始めました。

 当時は米が配給で、営業としては扱われませんでした。一年後から米はお客さまが持ち込み委託加工する形式で黙認されるようになりました。

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―寿司店となったのはいつからですか。

丸山(哲) 店を開いて一年ぐらいしてですね。おじの肝いりで大阪から寿司職人を呼び、大阪寿司を始めました。にぎりを主体に押し寿司、巻き寿司、蒸し寿司などを出すようになりました。九州は暖く、濃厚な味を好む傾向がありましたので、関西風の濃い味付けが合っていたのです。塩や砂糖を多めに入れることで、腐敗が遅くなり、日持ちするという側面もありました。

 当初はネタ集めにとても苦労しました。福岡県柳川市の赤貝生産業者を訪ねて送ってもらったり、シラスエビは大分県中津市、トリガイは広島県の業者、マグロは築地の専門業者とあちこちの業者を探して集めました。地元でも当時は、北浦からクエや、いいマダコが入っていましたね。

―延岡の寿司店のパイオニアだったのですね。

丸山(哲) カイワレ大根を寿司ネタに使い出したのも、私が最初でしょう。自分で栽培しお吸い物に使ったらおいしかったので、それを使ったお寿司を作り始めました。今ではどこの店でも出していますが、私が最初でした。

 ネタケースも冷凍機で冷やす形式は、一番最初に導入しました。近くの甲斐冷機に相談して作ってもらいました。冷房装置を作ったのも市内の飲食店では一番最初でしょう。甲斐冷機と一緒に、くみ上げた地下水(15度前後)を噴霧器で霧状にしてダクトを通して冷凍機と併用で冷やす方法を考え出しました。2―5度ぐらい温度が下がり、涼しかったですね。

 日豊海岸では当時、良質のウニが多く取れていました。そのウニをネタに使い出したのも延岡では一番最初。法人化したのも、飲食業界では私と新茶屋が最初でした。

 当時は、東京、大阪に年二回ほど行っていました。食べ物店をはしご食いしながら見て回ったり、バラン細工の名人に話しを聞いたり、日本一の酢じめ技術者と交流したりして勉強させてもらいました。

―今後の抱負を聞かせてください。

丸山(賢) メニューを見ていただければ分かりますが、一般のお食事店が出しているような定食物も作って出しています。寿司店というイメージが定着していて、なかなか召し上がっていただけないのですが、単身赴任の人や独身者が気軽に夕食ができる店、休みの日に家族で食べに行ける店を目指したいと考えています。

 カツ丼は秋田から無菌室飼育の豚肉を取り寄せています。特有の臭いがなく、甘みがあります。卵も2個使っています。

 昼限定ですが、うどんと丼物を組み合わせた「昼丼セット」も出しています。ミニカルビ丼、ミニ天丼、ミニうな丼などを、秋田の「稲庭うどん」との組み合わせで味わえます。「稲庭うどん」は乾麺を取り寄せており、細いが腰があってうまい麺です。

 将来的には、ボリュームがあり、栄養のバランスにも配慮した、おふくろの味のような料理を提供できたらいいですね。「まかない定食」みたいなネーミングにして、誰もが気軽に立ち寄れ、どんな料理が出るのかお客さんも楽しみな店にしたいと考えています。
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延岡商工会議所
(2008年10月号掲載)
代表取締役 塚元博文(62)

生き方の質が問われる時代
延岡市民に必要とされる健康施設を目指し


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― 今日は、浜町で「フィットネスクラブ・ターザン」を運営している㈱フィットネスアカデミーにおじゃましています。

塚元 
当社は、昭和六十一年九月の創業です。当時、父が経営していた映画館が、同産業の斜陽化にともない、代替を余儀なくされていたところ、高齢化社会の到来、健康志向といった言葉が聞かれはじめていました。
それに合わせるように二十二年前、当時としては新しい分野だったフィットネス産業に事業転換をはかり、県内初のスポーツ施設(温水プール・ダンススタジオ・トレーニングジム・サウナ)をオープンし、今日に至っています。

― 当時の業界は、どのような状況だったのでしょうか。

塚元 国民全体がそうだったのかもしれませんが、健康のために時間と費用を投資するという考え方は個人にも行政にもあまりありませんでした。とにかく、健康に対する意識を拡げることを考えていました。
 最近では、メタボ対策などが注目され、国民全体の健康増進につながる施設として、行政でもフィットネスクラブの価値を認める動きが拡がっています。プールに対する水道料金の値下げを実施する自治体なども出てきています。
 ですが、温泉施設等でレジオネラ菌が検出された問題では、温泉施設等と私どものようなプールが同じ基準で規制されるなど、行政の理解・支援はまだまだ十分ではないと感じます。

― 一昨年には浜町に施設を移転し、リニューアルオープンされましたね。

塚元 これまでの施設では、現在のフィットネスのニーズに対応できないと考えたのが理由です。移転に際しては、綿密なマーケティング・リサーチに基づき、それに見合った施設の容量を目指しました。新しい施設では、約2000坪の敷地面積、200台収容の駐車場を備えました。
館内には、これまでの定番だったプール・ジム・スタジオに、新たに「癒し」の要素を加味し、岩盤浴・マッサージ機、男女別の温・冷水風呂・ドライサウナ、プールサイドにはミストサウナ・ジャグジーを完備しました。
さらに、プールは水質にこだわっています。従来のような薬品による塩素消毒を行わず、塩水を電気分解して生じる電解次亜水で消毒する最新方式ですので、肌や髪・喉に負担をかけません。また、要望の多かった水中歩行やアクアビクス用のプールコースを増設するなど「人にやさしいプール」を実現できました。

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― 接客のポイントは。


塚元 何と言っても対面商売ですから、「気持ちよく来ていただき、気持ちよく帰っていただける」ということを最も重視しています。安全で、美しい、優しい施設づくりをフロント・コーチングスタッフと共に心がけています。
 現代の家庭や教育現場において、親も、学校の先生も、自信を持って子供を教育することができなくなっているのではないでしょうか。
スイミングスクールといっても、これからは、ただ泳ぎを教えるだけでは駄目です。当社では、「豊かな心」、「健康な身体」、「頑張る気持」を教育理念とする「子育て支援宣言」をしました。これまでも挨拶や整列など、教育に関わる部分はしっかりやってきたのですが、目に見える形で宣言しなければと思ったのです。
今後も、地域の教育の一翼を担っていきたいと考えています。

― 今後の展望は。

塚元 私たち団塊の世代は、自分の生き方を見つけられないまま、これから何をしていったらいいのか判らない人達が多くいるように感じます。これからは、「クオリティ・オブ・リヴ」、つまり、生き方の質が問われる時代です。そのためにはまず、健康な体づくりが何よりの基本です。
延岡市民の方々に必要とされ、支援していただける施設を目指してまいります。

― 商工会議所に一言。

塚元 どのような形でも、市内で商売をされている人達のために寄与していただきたいと思います。そのためには、会議所全体の予算の中でも、今よりももっと事業費の割合を増やしていく努力が必要ではないでしょうか。


㈱フィットネスアカデミー・フィットネスクラブ「ターザン」

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